不安を煽る「終活」商法と老人ホームのコロナ死

不安をあおる「終活」商法と老人ホームのコロナ死・記事アイコン・法人営業独言記事より 未分類

営業はときに信用されないことがあります、といいますか大体そんなところです。虚実織りまぜ価値なきものをさもあるかのように見せてだますという訳です。

実際お客様のご信用を頂けるまで時間が掛かります。

お気持ちはわかる、諦め気味にそれを感じたことのひとつに「終活」があります。
これぞ営業が嫌われるところの最たるものであまりにひどい。

いかがわしい商売とはこのための言葉でしょう。

いくらなんでも「きれいにいなくなれ」とは

遺言書を書き、銀行やらなにやら暗証番号をノートに記し、値のつくものは生きているうちに売って身の回りを整理しておくようにということらしい。
ひとことでいえば「迷惑をかけずきれいにいなくなれ」ということです。

いかに身過ぎ世過ぎのためとはいえこんなことを勧めてまわるとは。物売り稼業がつくづく嫌になる話です。

呆れるのはこれを真に受け、わざわざエンディングノートやら終活ノートなるものを買って書く者がいるということです。

書くものは勧めるものでしょう、核家族といわれた昔から老人は厄介の種です。

昔の老人に、

後に残るものたちに迷惑がかからぬよう、目の黒いうちに金目のもののありかをわかりやすく記しなさい。そしてカネにならぬものは身体の動くうちに処分せよ

と勧めたなら悲嘆のあまり卒倒したでしょうが、時代は変わり同居は死んでも嫌としていた世代が今や老人です。

こんなもの喜んで書くはずもないでしょうが時世時節と諦めて書くのか、それとも要領を得ないまま当節の流行りと聞いて納得したのか。

後者が少なくないことに驚きます、流行りとは恐ろしいものです。

なお本人たちとその子らは老後に2000万は必要と言われて怯えています。
孫に至っては老人にまわす国の予算をこちらに遣えとなかば怒っている。

他人の取り分を減らせば自分が増えると思っているらしくあおるものすらいますが、得するわけがありません。嗤うに堪えぬとはこのことです。

怯え、怒るほど、それを勧め煽るものの好餌となるばかりであります。お止めになることをおすすめする理由です。

詐欺商法・不可能と知りつつ老後に2000万円が必要とあおる

営業などをしておりますので私は人間の合理性なるものを信用していません、たかだか損得の話です。

そして損得をいうならば、普通人同士は誰が誰と比べても一生の帳尻は大体合っていると思っています。
例外はあれど大多数にとっては大きく得をすることもなく、さりとて大損をすることもない。
若くして負担が少なければその分年老いてからまとめてのしかかる。

核家族でやってきたならば今更子供に頼れない。

しかし2000万なんて大金を老後にとっておける人などこれほど人に会う商売にしてさえ、まずお目にかかったことがありません。

それなりの年収あるお客様を担当する営業でもそうです。多分ほとんどいないでしょう。

この「ほとんどいない」というところがこの終活商法が耳目を集める妙であり、いかがわしさであります。必要だといわれて無視できない。

これは営業としてはっきり申し上げますが、保険に入ろうが投資をしようがそんなかねを得ることは不可能です。
老後にそんな大金、用意できる訳がないじゃありませんか。国に求めたって追っつかない。

同じ屋根の下で老いたる家族と暮らすを当然とした時代の人たちから見ればおかしな話でしょう。
ぼやぼやしていればその2000万にはるかに及ばない蓄えすら、エンディングノート・終活ノートとかいうものに書かなければいけない。

老人ホームのコロナ死と終活を同じく語るメディア

腹いせ気味に書き出してしまったのは、コロナ流行で老人ホームでの死を嘆く報道を見たせいです。
嘆いてみせた数分後には天気か芸能人の話題で笑顔を振りまくものたちです。

あれを報じる連中に死者を悼む気持ちはありません、そのくせ視聴率や部数欲しさに老人ホームの死亡者を気の毒とは商売とはいえよくも言ったもの。
一方で終活やエンディングノートをすすめながらです。

こんな手練手管でなけなしのかねをむしり取ろうなど、もはや人の所業ではない。あるいはむしろ人ならではかも。

しかも我が生業にはマーケティングなる才智があります、いわば同類です。終活はその延長にあるもので生きんがための我がたつきとはいえさすがに虚しくなる。

救いがないのは、今ノートを書くものも、若いころそれが流行っていれば時勢に乗って書くことを勧めたものだろうと言うことです。

とどのつまり時の勢いだけです。

親も子も孫も皆個人、夫婦も個人。互いに住処と生活費を分け合う以上の関係はありません。あとは時々の流行で右往左往するだけ。

エンディングノートでも書くでしょう。

エンディングノートを書くのは「個人」でない証拠

老いて莞爾として孤独であることができるのは個人だけですが、それには力量と覚悟が必要です。

そんなものを持ち合わせた人は滅多にいないと思っています。
そそのかされて終活やらエンディングノートなんて素っ頓狂なことをはじめるものが個人のはずがありません。

それはさておき、終活をすすめてまわる一方で老人ホームのコロナ死を嘆いてみせるとは偽善にしても相当なものです。
じゃあ老後はどうすればいいのだと言われれば、こちらもろくな知恵がない。
せめてあんなものは見ても信用しないことを、半ばその同類として申し上げるぐらいです。

なお身の回りのものを整理するなどおよしになるよう強くお勧めします。
故人の身の回りの品々は残る人たちにも思い出深いものです、残って迷惑などありゃしません。

迷惑と思うものはそもそも故人に縁なきもので配慮に及びません。それこそ別に暮らすほうがはるかに幸いです。

最近それを後悔した人に会ったものです、どうかくれぐれもご処分なきよう。

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