医療崩壊と「生命の重さ」・ケチほどモラルを叫ぶ

コロナ・COVID19ウイルス流行にみる生命至上主義の無責任さについて語るブログアイコン 未分類

コロナによる医療崩壊の報道を見ていると、しがない営業などとは比較にならない大問題ではあるもののなんとはなしに身につまされることがあります。

患者がきても対応できない、すべきことに対して処理能力がないとは本当に辛いもの。
しかも私のような商売ではなく人助け、医療です。現場の方々の苦衷は察するに余りあります。

ただそれで政府の対応を難ずるのは筋違いです。ウイルスそのものも確たる治療方法も未知の状況でなにができるというのでしょう。

興味深いのは、普段から政府は信用ならない、政治家は馬鹿だとはばからず語るものほど緊急事態だからなんとかしろと叫ぶことです。
ほとんどわめき散らしている。

ケチほどモラルを叫ぶ

営業をしておりますと売上を上げよと毎日迫られます。よくあるのは実際に受注したのに会社の処理能力が足りないこと。
このとき責任があるのは営業担当です、かねのために仕事を取ったからです。

しかし人助けは違う、さぞや悔しく虚しいお気持ちと察します。
ひとつ同じであるのは普段から非常時にそなえて設備に余裕を持つなど非現実的であること。

無責任ほど普段からの備えが大事といいます、技術論でなくモラル・精神論です。

非常時の備えは巨額の費用がかかる

必要の3割増しで設備を持ちますと、コストでいえば固定費や設備償却が負担になり会社ならば潰れます。
実際にそれが理由の倒産は山ほど見ました。

国とて変わりありません、今や医療費が最大の予算項目という時代ではありませんか。

いっぽうで政府は、昨年来何もしていない、という大批判です。

科学的にみて現状がなしうる目一杯という人はあまりいません、代わりに怠慢・無策のゆえ尊い人命が日々失われていると。

理想はどうするべきだったか。対策を示さない批判ばかりですが、毎日見て参りますとなんとなく見えるのは平時から非常時に合わせた検査・治療設備を準備せよということ。
本気でしょうか、実際にやれば莫大な費用が掛かる。

私の仕事でもそうですが、顧客であれ社内であれ常に全ての事態に対応できる備えをせよ、と要求する人は最初から費用を負担する気がない人たちです。

ひらたくいえばケチな人々。そしてケチはだいたい無責任というのが物売りの常識であります。

医療崩壊に怒る人々・ケチはおおかた無責任・だから道徳を持ち出す

人命の重さを一緒に叫ぶところもちょっと似ている。製造業でも安定供給について責任とか義務など、モラルを押したて要求してくる。

かけがえのない生命の問題を、予算すなわちかねと同列で語るとは不届千万という訳です。

私は医療崩壊に憤る人の多くは、自分の命以外をのぞき生命の重さよりお金に関心があるケチがほとんどと思っています。

要求はしても負担はしたくない、もっといえば他者にさせたいものだと思っています。

商いで散々見て参りました、出すものは舌も嫌と言います。わずかな負担にも大変な反発を示す。
あれほどもめて今に至る消費税も本来は医療費が莫大となったための財源です。

今回のコロナを理由に将来の流行病対策として消費税が12%や15%とするを受け入れるとでもいうのでしょうか。

多分そこまでも考えていないとも思っています、メディアがそうですが不満があれば言い易い相手を選んでいう、そしてしばらくすれば忘れる。

怖いのはその普段と変わらぬ感覚です、それこそ今回の事態の異常さが分かっていない。世界中でバタバタと人が死んでいることが理解できていないのです。

そのくせ政府の対応を難ずる。予防薬も治療薬も確たるものがない状況でなにができるというのでしょう。

簡単に政治を非難するものは平時と異常時の違いが理解できていない

ながく政治家はずるく汚くしかも阿呆であるといわれてきました、そして官僚は鈍く怠惰(たいだ)であると。

しかし急速に事態が悪化し、医療崩壊寸前かあるいは崩壊しつつある最中にあって、予算を見比べつつ判断しているならば、むしろ貴重な才であり人となりでしょう。

これのどこが信用ならない無為無策の無能などでありましょうか。
異常事態に普段と変わらない生活を要求するものこそ真のぼんくらというべきでしょう。

日本で政治をこき下ろすのは最も簡単なことです。どんなに知識がなくても簡単にできる、捕まることもありません。
商売柄、簡単に政治家を馬鹿呼ばわりする人はたいがい知的でない人が多い。

ついでにいえば最近は以前からの馬鹿・無能に続けて政府は日和見・ポピュリズム・方針がない、と続くようになりました。

よくもいうもの、視聴率や部数、そしてバラエティどころかニュース番組まで愚にもつかないタレントと芸人で固めたメディアのどこが主義主張でしょうか。
民主主義はもともとポピュリズムと紙一重の怖いところがあるのです。

ある程度納得ずくとは思うものの、政府もあそこまで言われては厳しいだろうなと察します。

能力は限られており、かねの出る当てもなく、毎日ひたすら生命の尊さで責められるのですから。

しかも求めるところは「コロナ以前と同じ生活を保証せよ」です。

平時と異常時の違いがわからず、払う気もない者からモラルを持ちだされてはかないません。

こういうとき物売りならば黙って耐えるほかはない。

「いのち」と平仮名で書くいやらしさ

昨今「生命の尊さ」については材料に事欠きませんので改めて。

ひとつ申し上げればメディアで言われるそれは、今回のコロナ報道も含めただの偽善でしかないと思っています。
そもそも日本のジャーナリズムでは「特ダネ」「スクープ」こそ第一とされます。人の不幸こそ商売になると自ら語っているのですから。

真剣に命大事と感じるのは、自分と身近な人だけ

我々が本当に感ぜられる生命の重さとは、自分だけかせいぜい近しい人のそれが限度でしょう。

それ以上の範囲を我がことのように感じるならば、それは凡人でない。ほとんど才能に近いと思います。あるいは安っぽい錯覚で、世の中は凡人で満ち溢れております。

それが証拠に毎日ニュースには事故や事件で死亡記事があふれていますが、報道関係者でも医療崩壊に憤る人でも世をはかなんだなど聞いたことがありません。

どころか嬉々として報道し、食い入るようにかつ読みかつ観るものたちが「生命の尊さ」とは。
口は便利なものです。

「いのち」は自分に酔っているところが薄気味悪い

よく「生命」「命」を漢字ではなくわざわざ「いのち」と読ませる広告やメディアがあります。
ほとんど薄気味悪い。

漢字をわざわざ平仮名で書くタイトルは大体そうであります。

商売向けというだけでなく、書く本人も見る側も自分に酔いしれていることがわかるからです。

そんな簡単に他人に優しくなれるわけがない、身近な学校や会社でいじめや自殺はかくのごとしです。

同じく宣伝・広告が生業のものとして、マーケティングとはいやらしい才能と憮然とすることがありますが、こればかりはひどい。
私のように売り込むものが人から信用されないはずです。

幸いながらというべきか、私のお客様や同僚は誰言うとなくコロナの話は疲れるから収まるまで止めようという人たちでホッとします。

報道されない大多数、つまり庶民は穏やかに落ち着いた構えであるらしいとご近所の様子を見てもそう感じている次第です。

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