コロナ流行で毎日実に忙しい。
ただ聞けば日本は感染率が低いらしい。国が情報操作しているとかいろいろ言われますが確かに身の回りには感染者がいません。不幸中の幸いと喜べるかといえばそうでもない。
流行り病です、つまり人と触れ合うと罹りやすい。
いっぽう日本人はそもそも会話なるものをしない、というより苦手。
単純にそれが理由かもしれない。とすれば病気には強くともあまりいい話じゃない。
感染率の低さは他人と関わらないから
なお同じく話題になりはじめたDX(デジタルトランスフォーメーション)とやらは下請けたる中小企業の作業が増えることを意味します。
テレワークも最終的には誰かが現場に居なければいけません。
正直私も同僚も少々怖い、そんなとき話題になるのは日本人は体質的にコロナウイルス(COVID-19)感染しづらいとの報道。事実かどうかはわかりません。
ただ海外のように多くの死者を見ない。それからみればめぐまれている、感謝すべきことでしょう。
もともと会話も社交もない・ソーシャルディスタンスは保たれている
しかしそんなとき周囲との会話は「そもそもあんまり人と話したがらないもんな」で終わります。
単に無言が価値の社会で社交らしきものも無いのならば、ウイルスも撒き散らしません。素直に喜べない。
日本人はあまり人と会話したがらない、というよりそもそも関わりを避けます。
コロナ前から出来るだけ距離を保とうとする、距離だけではなく音や匂いも含めて社会的なものすべて。
こんなにも都会好きで加えていえば流行りもの好きの行列好き、しかも狭い住環境でありながら本気かと。
同国人ながら思いますが、やるのです。
ソーシャルディスタンスなどとカタカナで言わずとも、コロナ前から「距離」は保たれているのではないでしょうか。誇れる話かといえばなんとも言えませんが。
私は人に会う職業です、「会話ができない」人が実に多いことに気づく。無口なのではなく語る内容がないのです。
寡黙の理由は言葉の貧しさ
会話が少ないとどうなるか、些細なしぐさや言葉・態度の意味が大きくなります。
子供のようです。
一家言あると自認する相手であるほど、些細な言動に気をつける大切さはこの商売で嫌というほど経験しております。
しぐさで察せよとは子供の言い分
営業の最も注意するポイントで、会話や外見から内心を推し量ることが求められます。
いきなり相手が怒り出したり、後々不興を買うのは営業として注意深さに欠けるというわけです。
営業ならばいいでしょう、わがままを聞くのが仕事ですから。
でも地域社会や家庭でも普通にあること、ブロックサインに満ちているのです。
察しが悪いのはよからぬことというわけです。
顧客相手だけではない、社内調整に苦労された方は同じような実感を持たれているはず。
察することができないほうが悪いとなります、気遣い下手というわけです。
大きな理由が「寡黙」は我が国では美徳だからでしょう、尊ばれる。
ありていにいえば言葉が貧しいだけです。言葉にならずかんしゃくを起こす子供の言い分で、いいかえれば論理力のないものほどこれに頼る。
不満なるものを詳しく聞けば驚くほど幼稚である理由です。
定年離婚でわかる・中身がないからしゃべらない
体験から申し上げれば、寡黙や無言のうちの気配りを美徳と自認するひとで実際に中身のあることをしゃべる人物に会ったことがない。ほとんどが語る言葉や内容を持たないひとでした。
論理力が少々お粗末なだけだけ。
交渉術なるものを説いたビジネス書によれば寡黙は相手の繊細さや秘められた複雑な心理を表すそうですが、そう言っておけば誰も傷つかず本が売れるというぐらいなものです。
恥ずかしながら私もやった、黙って静かに聴いているとだんだん相手がうわずるのがわかる。
通勤のたびに思うのですが、向かいに座っている人は男女の別を問わず実に不機嫌そうです。
電車の中だけではなく似たような人は職場・顧客にも多い。多分家でもそうでしょう。
定年と同時に離婚するとき、妻はあるいは夫は相手に対し、積年の恨みごととしていかに過ごした時間が虚しかったかを語るそうですが、まあお互い様というものです。
流行語では思考できない・好悪だけになる
電車の中はともかく、身近な人と「会話」が成立しないのは共通の言葉が無いからだろうと思っております。
世代間で共通の「言葉」といえば流行語以外無く、もとより社交は皆無。
マナー講座で教えるのは、あれは相手に媚び、お追従をする方法で人間性や伝統への敬意はありません。
私が生まれる前から、家族とすらろくに会話しない手合いが、一方ではマナー本のとおりに振る舞い、流行語さえ入れば気の利いた会話だと本気で思っておりました。
繰り返しますが、無言が尊ばれるのは言葉が貧しく語るべき内容も無いせいではないか、とかねがね疑っています。
言葉の貧しさは人品に大きな影響があるようです、そうしてみれば男女を問わず歳を経るにつれ社会性が失われ人相も犬猫に近づく。
まるで幼児のごとく好き嫌いだけで話し、行動するようになります。年古りた含蓄を感じさせるなんてものは、まあ滅多にありません。
日本人の社会性は20歳がピーク・その後ゆっくり幼稚化
人に会う商売を20年ほど続けた限りにおいて、少なくない日本人にとって社会性は20歳ぐらいでピークに達し、以降は緩やかに低下して最後は動物に近いレベルになると思っています。
好き嫌いとか強弱しかないのですから。
余程特殊な環境にない限り、私たちは子供の頃「みんなと喧嘩をせず仲良く」「人に親切に」「相手に敬意を払え」と教わります。
若者の肩を持つつもりはありませんし、そういうことを飯の種にする手合いが大嫌いですが、二十歳前後の人と話していてなんとなくほっとするのは学校を卒業したばかりでこれがまだわずかに残っているからです。
言葉や社会性を失うと犬猫に近づく
それが30代に近づくにつれ急速に消える。「好きか嫌いか」「損か得か」「強いか弱いか」に偏るようになる。
男女の別を問いません。
これを複雑な人間性と捉える人もいるようですが、迎合です。控えめに言ってただ幼稚なだけです。
日本のドラマや映画が絶望的につまらない理由でもあります。
40歳を超える頃には円満な人柄を探すこと自体が難しくなる。
動物はないだろうと思われるかもしれませんが誇張ではありません。
初対面は理由に依らず、唸り声を上げるか歯を剥き出すか、ほとんど犬猫レベルの反応しかしない人は多い。
本来ものの分かった年回りの人から「とにかくあいつが嫌いなんだ」と何度聞かされたことか。完成したこどもおとなであります。
家族と何らかの問題を抱えている人も多い。そりゃ犬猫なら理由なくもめるでしょう。
そのまま定年リタイアで仕事上の人間関係は終わり、孤独にもなる。
(褒めたくないが)日本以外では社交は重要な能力
私は少しナショナリストの気味があって、外国を引き合いに出して日本人の欠点をあげつらうのがどうにも好きではありません。正直にいえば我が国について多少の傷は目をつぶる。
公正とはいえなくともそれが愛国心というもの、なにより健全であります。
ただ商売上のお付き合いにあっても連中(ほめたくないのであえてこういいますが)の社交は我が国のそれより残念ながらはっきり上です。
社交性のなさは「言葉のなさ」
言葉を大切にする、会話に意味を求める。
むろんそうなる理由はあって、アメリカや欧州は強ければ何をしてもよい社会です。人種差別のニュースを見るたび、高い相互理解の手法を必要とするほど世知辛い歴史があったのだとわかります。
ここは我が国の幸いで、海外では社交・コミュニケーションの方法が発達するはずです。
とはいえだんまりを決め込んで察せよとはあまりに貧しい。海外通のお決まりはグルメで、彼の地の素晴らしさをたたえるものです。しかし彼の地の会食で大切なことは会話で、それには触れません。なお行けばわかりますが不器用なものでも気の利いたことを言おうとしているのがわかる。
本邦とは異なりグルメであることは全く要求されませんが、話題が貧しくかつ食べ方が下品というのは大変困るというのが海の向こうの常識であります。
だんまりは次におよばれがありません、相手をするに値しないとみなされる。
いっぽう国内はと言えば、これは人かはたまた犬かと思うような生き物を相手に、かつ聞きかつしゃべり口に糊する日々であります。
なお営業なんぞをしていると言葉の重さが身に染みます。商売柄流行語にはかなり注意しておりますが、その貧しさも思い知ることが多い。
今使われている国語は明治後に作られ、それ以前とはかなり途切れた言葉であります。
言葉として150年程度しかない、きわめて短い。
いろいろ不都合があるはずで、これが普通人の会話や思考を妨げているのではないかと常々疑っております。
LINEが流行る理由・ぶつ切り、会話でなし文章でなし
少々前の話ながら、LINEが流行ったときなるほどこれならと納得したものです。
あれは単語をつなげただけのぶつ切りのもの、普段しゃべっているとおりです。会話でも文章でもない。
だから今になじんだのです。
もしコミュニケーションとしての優劣を問うならば、劣っているといっていい。
欠陥がある証拠につまらん行き違いでいつもおおいにモメています。読むものもたいていイラついている。一体あれのなにが効率化でしょうか。
少なくとも日本以外の、欧米やアジアにおいては、言葉に長けていることが重要な徳目と思われていることは確かです。
犬猫や幼児から見れば外国人は「だいぶ人間らしい」。
もしそういったコミュニケーションが一因ならばあの感染率の高さも納得です、死は痛ましいことながら一概に不幸せばかりとも言えないのかもしれません。
日本人のコロナ感染率低しと聞いて、ああも喋らなきゃ流行りようがねえ、と応じる知人がせめてもの救いか。
寡黙とコロナはどちらが不幸か
コロナは感染りづらいかもしれませんが、孤独もまたたいそう身体に良くないそうです。
寿命にも目に見えて影響するとか。
長生きだけを比べるつもりもありませんが、どちらが不幸なのか。
凡夫凡婦の寡黙は美徳ではない・幼児性の現れ
なおついでに申さば、「寡黙」はその相手をする人間の健康にとっても確実によろしくない。凡夫凡婦が察せよとばかりに傲然と構えるところが始末に負えません。
商売だから仕方なく相手をしますが、そのときの気分でころころ考えが変わる犬猫の頭の中身をどう察せよというのか。
幼児並みどころか犬猫レベルの社交性によるならば、感染率の低さも素直に喜べない日々であります。
なお国が真の感染率や死亡率を隠しているという話、あれはさすがに嘘です。
あの混乱のなか、そんなことをしているヒマがあるはずがない。
陰謀論めかして言えばテレビやネットで耳目を集められるからあおったにすぎません。
埋葬できないほどの死体が積み上がった事実もない。
感染率が低いのは本当でしょう、それだけによほど会話がないのだと知れます。
昭和というなかれ、家に帰っても「飯、風呂、寝る」からたいして変わっておりません。ウイルスなんぞ撒き散らしようがない。
コロナも敵わぬ社交性のなさ、驚くべきものです。